今週末の10日(日)には9月の 低空飛行第2@高畑 があります。
14時~20時まで開けていますので、時間のある方は覗いてみてください。
お菓子など食べつつ、近況報告をしたり、予定を立てたり、気晴らしできればと思います。
場所に自信がないという方もメールで気軽にお問い合わせください。
毎日消耗させられる事も多いですが、適当にやっていけたらと思います。
この前、思い立って 佐屋街道 の岩塚宿~万場宿を過ぎた辺りまで2時間くらい歩きました。
ここは岩塚の辺りで、所々に古めの家屋もありましたが基本的にただの道路でした。
岩塚宿場跡という立て札はあるものの、辺りには何の変哲もない民家しかない。
遍慶寺で岩塚城址の碑を見て、そのまま街道を進みます。
名古屋のガンジス、庄内川の堤防に突き当たったので万場大橋を渡って向こう岸に。
マンションの陰に小さな社が見えます。
小さな社、秋葉社のある場所がかつての万場の渡し跡で、常夜灯が残っていました。
実際はもう少し南辺りに渡し場があったようです。
ひと気のないただの道路に見えますが、佐屋街道です。
ふんどし姿のおっさんが庄内川に立てた竹に登り、倒れた方向で吉凶を占いという
尾張三大奇祭の一つ、七所社の きねこさ祭り が道路に描かれていました。
今回は堤防を歩いてきたので七所社には寄りませんでしたが、ヤマトタケルの腰掛岩や
3つの古墳(塚)が「岩塚」の地名の元になった神社で、万場大橋の手前にあります。
結構歴史があるらしい國玉神社や、でかすぎる灯篭のある光圓寺を通り過ぎる。
いかにも何かありそうな灯篭ですが、解説などは特になく。
高速道路の下を通って北西に進みます。
この辺から大治町に入るようで、何も書いてなければ佐屋街道だとは気付かない田舎道です。
実は数日前、昔入院した時に同室だった大治町の人がもう亡くなっていると人づてに聞いたので、
何となく、その人の住んでいた近くまで行ってみようかなと漠然とした気分で歩いていました。
砂子橋を越えると古い蔵らしきものが見えました。
同室だった人は自分より20くらい年上で、お互い退院後も1年くらい付き合いがありました。
10代で九州から単身名古屋に出てきて、ずっと天涯孤独の身だとよく言っていた。
九州に帰ると話していたので、今は九州で元気にしているとばかり思っていたのですが……。
亡くなったと聞いて一番最初に思い浮かんだのは、入院中に一時外出の許可を貰った時、
その人の働く建築会社のロゴ入りの白い軽トラに乗って、大須などで遊び回った記憶でした。
勝手に遠出して遅く帰ったからか病院には叱られた気がしますが、
楽しかった2人旅の思い出として、何となくロードムービーみたいなイメージで残っています。
自性院と栗田直政の記念碑が。誰か知りませんでしたが、源氏遠鏡を書いた国学者らしい。
機嫌がいいと自分が身に付けている物も気前よくあげてしまう人で、貰った帽子が今もあります。
「焼き穴子が美味い」と連れて行ってくれた回転寿司屋は、もうずっと前に潰れてしまった。
「再入院したので面会に来てほしい」と言われて病室で会ったのが最後でした。
面会でどんな事を話したのか、ずっと昔の事で思い出そうとしても全然思い出せない。
写真も一枚もない。下の名前さえ思い出せない。共通の知人も、所縁の場所も知らない。
どこに行けばいいのかわからなくてこんな所に来てしまった。
暗くなってきたので堤防を歩いて名古屋に帰りました。
結局、何か思い出せた訳でもなく、気が晴れた訳でもなく。
別に今までと何かが変わる訳でもない。
「一生を終えて後に残るのは、我々が集めたものではなく我々が与えたものである」
という言葉がありますが、確かに与えてもらった思い出と帽子はずっと残っています。
与えられたものはいつの間にか自分のものになり、軽トラの助手席に座っていただけだったのが
今度は連れまわす側になったり、自分の行動の中に探していた人の痕跡を見つけたりする。
会いに行けないという意味では九州もあの世も距離的にそんなに違いはないので、与えられたものはいつの間にか自分のものになり、軽トラの助手席に座っていただけだったのが
今度は連れまわす側になったり、自分の行動の中に探していた人の痕跡を見つけたりする。
引き続き九州で元気にやっているのだと思っておく事にしよう。
あと、暗くなってから堤防を歩くのは結構危ない。